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Home Sweet Home
三連休は、母と、父のいる熊本へ行ってきた。
単身赴任している父のマンションで、親子三人、川の字になって寝た。
こんなんするの、いつ以来やろ??
日曜日は、何回行っても飽きることのない南阿蘇へ。
ススキや稲穂が大地を黄色く染め、秋の風が舞い込んでくる季節。
ここに来るたびに、日本は美しい国だなぁ。
こんな美しい国に生まれて幸せやなと思う。
長陽駅の、資本ケーキもおいしいしね。
月曜日は、長崎県雲仙まで足を延ばした。
火山噴火で40人以上の人が命を失った雲仙岳が有名やけど、棚田と海の美しいところやった。
父の故郷は、熊本県人吉。
母の故郷は、北九州。
私は北九州で生まれ、大阪で育ち、その後アフリカへ行ったりもしたし、故郷というものがよくわからない。
父は転勤が多く、高校生のときから一緒に住んでいないし、大学に入ってからは一人暮らしになった。
故郷がないということにコンプレックスを持つときもあった。
けども、自分の「故郷」を考えたとき、それは場所ではなくて、出会ってきた人々やと思った。
こうして、父や母に会うことが故郷に帰ること。
家族、友達、恩師・・・そうした大切な人々に会えることが故郷に帰ること。
そう考えると、私にはきっと、人より沢山の故郷を持ってる。
もうコンプレックスに思うことなんてないのかも。
父は社交的やけど、あまりベラベラ喋る方ではなくて、うちの家族の中では大人しいほう。
私と父が直接連絡をとることはあまりなく、いつも母を挟んで連絡を取り合ってる。
(といっても、決して仲が悪いわけではなく、むしろ仲の良い方やと私は密かに思ってる。じゃあ連絡取れよって話やけども)
協力隊に行くことも、派遣国が決定してからの事後報告。
それでも私がやることに反対したり、「こうしろ」「ああしろ」と言われたことは一回もなく、いつも「ふ~ん」という感じ。
温かく見守ってくれていると捉えていいんかいな?ん?関心薄いだけ?
黙々と家族のために働いてくれてきた父。
小さい頃はじゃれ合いから、いつの間にか喧嘩する、なんてことがよぉあったなぁ。
反抗期はきっと長かったと思うけど、今では父のことを尊敬しちゃったりしてる。
母は芯がしっかりとしていて、堅実。
冒険するタイプではなくて、地に足着いて着実に歩いていく。
私のようなアドベンチャーな人生に、母は呆れてるかもしれないけど、それでもいつも応援してくれる。
そんな母が、留学先のオーストラリアや、派遣先のタンザニアへ来てくれたのは、めっちゃ嬉しかった。
私以上に頑固なところがある母なので、お互い譲れなくって喧嘩することもあしょっちゅうやけど、色々と心配してくれてるんやって知ってる。
人を笑わせたりするのが好きなのは、陽気な母の影響もあると思う。
何か悩みがあるとき、愚痴りたいとき、おもしろい話をしたいとき、いつも聞いてくれるのは母。
きっと私みたいなフラフラしてる人間は、母にとったら心配だらけやろう。
それでも、いつも応援してくれる母に感謝してる。
お互い、なかなか素直になれんけどね。
タンザニアから帰ってきて、早三ヶ月。
右へ行ったり、左へ行ったりやったけど、ひとまず進路が決まった。
国際交流から始まり、国際協力へと興味が拡がった、大学時代。
協力隊を経て、私の関心は国際協力から、国際ビジネスへと拡がっていった。
援助ではなく、ビジネスとして、平等な立場で、これからもアフリカに関わることができる。
そんな機会をありがたく思う。
長いようで短かった、母との二人暮らし。
きっと、お互い寂しくなるね。
父と母のことを書いたのは、普段、素直に言えないことを伝えるため。
本当は面と向かって言うべきなんやろうけど、それは、自分でまた稼げるようになってからにしよう。
父母含め、いつも元気をくれる皆さん、支えてくれる皆さん、本当にありがとうございます。
私も父と母のような、いつまでも仲良しさんな夫婦になれるといいなぁ。
これからは、母のリクエストにお答えして、人生最大の就職活動とも言われる婚活にもエネルギーを注がなくては。
単身赴任している父のマンションで、親子三人、川の字になって寝た。
こんなんするの、いつ以来やろ??
日曜日は、何回行っても飽きることのない南阿蘇へ。
ススキや稲穂が大地を黄色く染め、秋の風が舞い込んでくる季節。
ここに来るたびに、日本は美しい国だなぁ。
こんな美しい国に生まれて幸せやなと思う。
長陽駅の、資本ケーキもおいしいしね。
月曜日は、長崎県雲仙まで足を延ばした。
火山噴火で40人以上の人が命を失った雲仙岳が有名やけど、棚田と海の美しいところやった。
父の故郷は、熊本県人吉。
母の故郷は、北九州。
私は北九州で生まれ、大阪で育ち、その後アフリカへ行ったりもしたし、故郷というものがよくわからない。
父は転勤が多く、高校生のときから一緒に住んでいないし、大学に入ってからは一人暮らしになった。
故郷がないということにコンプレックスを持つときもあった。
けども、自分の「故郷」を考えたとき、それは場所ではなくて、出会ってきた人々やと思った。
こうして、父や母に会うことが故郷に帰ること。
家族、友達、恩師・・・そうした大切な人々に会えることが故郷に帰ること。
そう考えると、私にはきっと、人より沢山の故郷を持ってる。
もうコンプレックスに思うことなんてないのかも。
父は社交的やけど、あまりベラベラ喋る方ではなくて、うちの家族の中では大人しいほう。
私と父が直接連絡をとることはあまりなく、いつも母を挟んで連絡を取り合ってる。
(といっても、決して仲が悪いわけではなく、むしろ仲の良い方やと私は密かに思ってる。じゃあ連絡取れよって話やけども)
協力隊に行くことも、派遣国が決定してからの事後報告。
それでも私がやることに反対したり、「こうしろ」「ああしろ」と言われたことは一回もなく、いつも「ふ~ん」という感じ。
温かく見守ってくれていると捉えていいんかいな?ん?関心薄いだけ?
黙々と家族のために働いてくれてきた父。
小さい頃はじゃれ合いから、いつの間にか喧嘩する、なんてことがよぉあったなぁ。
反抗期はきっと長かったと思うけど、今では父のことを尊敬しちゃったりしてる。
母は芯がしっかりとしていて、堅実。
冒険するタイプではなくて、地に足着いて着実に歩いていく。
私のようなアドベンチャーな人生に、母は呆れてるかもしれないけど、それでもいつも応援してくれる。
そんな母が、留学先のオーストラリアや、派遣先のタンザニアへ来てくれたのは、めっちゃ嬉しかった。
私以上に頑固なところがある母なので、お互い譲れなくって喧嘩することもあしょっちゅうやけど、色々と心配してくれてるんやって知ってる。
人を笑わせたりするのが好きなのは、陽気な母の影響もあると思う。
何か悩みがあるとき、愚痴りたいとき、おもしろい話をしたいとき、いつも聞いてくれるのは母。
きっと私みたいなフラフラしてる人間は、母にとったら心配だらけやろう。
それでも、いつも応援してくれる母に感謝してる。
お互い、なかなか素直になれんけどね。
タンザニアから帰ってきて、早三ヶ月。
右へ行ったり、左へ行ったりやったけど、ひとまず進路が決まった。
国際交流から始まり、国際協力へと興味が拡がった、大学時代。
協力隊を経て、私の関心は国際協力から、国際ビジネスへと拡がっていった。
援助ではなく、ビジネスとして、平等な立場で、これからもアフリカに関わることができる。
そんな機会をありがたく思う。
長いようで短かった、母との二人暮らし。
きっと、お互い寂しくなるね。
父と母のことを書いたのは、普段、素直に言えないことを伝えるため。
本当は面と向かって言うべきなんやろうけど、それは、自分でまた稼げるようになってからにしよう。
父母含め、いつも元気をくれる皆さん、支えてくれる皆さん、本当にありがとうございます。
私も父と母のような、いつまでも仲良しさんな夫婦になれるといいなぁ。
これからは、母のリクエストにお答えして、人生最大の就職活動とも言われる婚活にもエネルギーを注がなくては。
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